グイノ神父の説教
B 年 年間の主日
第1〜7の主日から
第12の主日まで
年間第2主日
年間第3主日
年間第4主日
年間第5主日
年間第6主日
年間第7主日
年間第12主日
年間第2主日 2009年1月18日
サムエル記上3章3-10節、19節 1コリントの信徒への手紙 6章13-15節、17-20節 ヨハネ1章35-42節
多くのキリスト者は祈るとは沢山しゃべる事だと理解しています。 そしてあまりにも度々、私達は神に向かって言葉の大波を浴びせます。 それは私達の考えと必要を神にすべて分からせる為です。 しかしながら、イエスは予測して、私達に異邦人のようにくどくどと繰り返してはならない(マタイ6章7節)と、言われました。
「どうぞお話ください。 しもべは聞いております。」(サムエル上3章10節)と、夜の静寂の中で、若いサムエルは黙っています。 サムエルが黙っているのは、沈黙に特別の価値があるからではなく、彼が主を知らないからです。 誰かを知るには、先ずその人物の望みを聞き、沈黙の中にその人物を眺めなければなりません。 それは、ミサがいつも神のみ言葉の朗読から始まるので、私達が神を知るたすけとなるのと同じです。 朗読を注意深く聞きながら、私達は神の神秘の中に入り込みます。 ミサの時間に間に合うように出席する重要性はここにあります。 というのは、神が私達に期待しておられる事を知らずに、私達はどんな風に自分の心を、神に差し上げる事が出来るでしょうか! もし神の言われる事を聞かなければ、どんな風に、神に「お言葉通りこの身になりますように」(ルカ1章38節)と言えるでしょうか?
世の初めから、神は人と話されます。 度々、神の言葉を聴こうと望む人に、神は、直接、沈黙のうちに語りかけられます。 「私は彼をいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよう」(ホセア2章16節)と言われています。 しかし、ご自分の望む事を人に理解させる為に、ご自分が選んだ天使、預言者、使徒たちや司祭たちという人々を通しても、神は語られます。 例えば、年取った司祭であるエリは、サムエルが自分の人生で、神の言葉を聴いていく道を見つけるように、またそれを理解するように手伝います。 アンドレとヨハネは、イエスの最初の使徒となってイエスに従うようにと、洗礼者ヨハネによって招かれます。
「何を求めているのか?」これがヨハネの福音書の中で、イエスの最初の言葉です。 この質問は、あらゆる時代の、すべてのキリスト者に問いかけられたもので、それは彼らの人生に意味を見つけるためです。 この質問に、アンドレとヨハネは他の質問「先生,何処に泊まっておられるのですか」で答えます。 これもまた、あらゆる時代のキリスト者が絶えず問いかけなければならない質問です。 イエスを「先生」として、探し求める方として知る事、彼と眼差しを交わす事、彼と共に道を歩む事、彼の近くに留まり、彼の言う事を聞く事は、あらゆる世代のキリスト者の基本的な態度です。 「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。」(ヨハネ8章31節)といわれています。
イエスは探し求める人たちに「来て、見なさい」と言われます。 何故なら、これはイエスを知り、、彼と親しい友になる唯一の方法だからです。 イエスは実現不可能な事を要求されません。 私達の人生のすべてを変え、美しくするため、唯、彼と眼差しを交わす事だけを、彼は私達に提案されます。
神の現存の喜びをイエスと共に味わう為に、イエスは私達が自由に神の方向へ歩く事、キリストの傍に留まるように私達を招きます。 そういうわけで、受難に入られる前に、最後の晩餐のとき、イエスは信頼と愛とをもって、これらの言葉を口にされます。 「あなた方が私に留まっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。 そうすればなんでもかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、それによって、私の父は栄光をお受けになる」(ヨハネ15章7,8節)ということばです。
父なる神の唯一の望みは、私達の個人的生活の中で、私達が御子に出会うことです。 もし私達の信頼と内面的親しさをイエスに捧げるなら、その時、神は私達に易しくご自分を啓示されるでしょう。 もし私達が注意深く御子の教えを聞くなら、その時、神は私達の心に直接、語られるでしょう。(ヨハネ6章45節) もし私達が、祈りの沈黙に入りこむなら、その時、神は私達に豊かな実りをもたらされるでしょう。 さらにもっと、彼ご自身が聖であるように、私達も聖となるために(レビ記11章45節)、必要な霊的指導者を与えられるでしょう。 だから、私達の信頼と希望を込めて、「主よ。話してください。 しもべは 聞いております。」「お言葉通り、この身になりますように」と主に打ち明けましょう。 アーメン
年間第3主日 2009年1月25日
ヨナ書3章1−5節、10節 1コリントの信徒への手紙7章29−31節 マルコ1章14−20節
今日まで3週間のあいだ典礼は召し出しについて語っています。 若いサムエルの召し出し、ヨナの召し出し、洗礼者ヨハネの召し出し、洗礼の時に受けたイエスの召し出し、そして最初の使徒たちの召し出し、最後に今日私達がその回心を祝う聖パウロの召し出しを思い出しましょう。 神はご自分の賜物の主人で、罪人であろうと、羊飼いであろうと、たとえ神を迫害する者であろうと、ご自分の望む人に賜物を与えられます。 神は才能に恵まれた人、尊敬される人、または賢い人だけを呼ばれるのではなく、神自分が呼ばれる人びと皆を能力のある、また値打ちのある、賢さにあふれる人にします。 神ご自身の呼ばれた人が、神にとって、人々の前で、彼が見て聞いたものの証人であることだけを望まれます。(ヨハネ第1の手紙1−4章参照)
引き続いて起こる多くの失敗や苦悩のせいで、パウロは自分の召し出しを意識的にエレミヤの召し出しと比較します。 「私を母の胎内にある時から選びわけ、恵によって召しだしてくださった神が、み心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤの信徒への手紙1章15,16節、エレミヤ1章5節)とパウロは宣言します。 同様に、使徒たちと預言者たちの類似を良く示すために、マルコは列王記上19章を参照にしながら、話を書いています。 エリシャは農夫でしたが、呼ばれるやいなや、自分の仕事を直ぐに止めて、預言者エリヤについて行くためにすべてを捨てます。 マルコはイエスの最初の使徒たちの召し出しを叙述するのに、同じ言葉、同じ立場をつかいます。 ペトロ、アンドレ、ヤコブそしてヨハネは個人的に主に呼ばれました。 エリシャのように、彼らは自分の仕事をやめ、イエスに付いて行くために、すべてを捨てます。 彼らの使命は、今、マルコがその逮捕を知らせたばかりの洗礼者ヨハネの使命のように危険です。 なぜなら、イエスの弟子たちは預言者たち皆のように死の危険にさらされています。 イエスと共にいる彼らの歩みは、十字架の足許に、先ずイエスの十字架の足許に、つづいて彼ら自身の十字架に、仮借なく彼らを導くでしょう。 「私の後に従いたい者は、自分の十字架を背負って私に従がいなさい」(マルコ8章34節)
ダマスコへの道で、キリスト者の迫害者であるパウロは、復活したイエスと出会い、同時に十字架の神秘を発見します。 使徒となった彼は、十字架の神秘について、また十字架に付けられたイエスについて話すのを止めません。 彼にとって悪いキリスト者とは、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」です。(フィリピの信徒への手紙3章18節) パウロは十字架がスキャンダルである事を隠しません。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には、神の力です。」(1コリントの信徒への手紙1章18節) 使徒としての召し出しを自覚しているパウロは、「私はキリストと共に十字架に付けられています。」(ガラテヤの信徒への手紙2章19節)と言い、また更に「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイの信徒への手紙1章24節)とまで言っています。
神の呼びかけは何時も回心や今までと違った生き方に導きます。 すべての召し出しはまた、他の人への奉仕に尽くすように急がせます。 このようにガブリエルの告げを受けたマリアは従姉妹エリザベトのところへ急いで行こうとし、使徒たちはイエスに直ぐに従います。 預言者ヨナは神のメッセージを宣言しようと急ぎます。 ニネヴェの大きな町を横切るには3日かかります。 それを「後、40日すれば、ニネヴェの都は滅びる!」だから無駄にする時間はないと叫びながら、ヨナはほとんど1日で走りぬけました。 そしてニネヴェの人の反応は素早いでした。 「すぐにニネヴェの人びとは神を信じ」彼らは回心します。 彼らの日常生活はこの急な回心によってひっくり返ってしまいます。
聖パウロとキリストの使徒たちは、受けた召し出しによって、救いのよい知らせを宣言しながら、世界中の道を走ります。 あらゆる種類の苦難のうちにあって、彼らは十字架の神秘を生き、ヨナの警告を「定められた時は迫っています・・・ この世の有様は、過ぎ去るからです。」(1コリント7章29,31節)と繰り返し伝えます。 人びとが彼らの言葉に耳をかそうとしない時、弟子たちは時を移さずにキリストの忠告に従い、直ぐに他の場所へ行きます。(マタイ10章14節参照)
信仰の賜物によってキリストの弟子になった私達は、自分の周囲に救いの良い知らせを広げようと望むでしょうか? 私達は聖なる神、生きる神の証人である事を示すために、どんな動機をもっているでしょうか? 信仰のうちに成長し、キリストに忠実に従がう為に、大事だけれども、私達の使命の障害となる物事を犠牲にする心構えが出来ているでしょうか? キリスト者としての召し出しを確実なものとし、それに伴う試練や失敗や苦難を私達は怖れていないでしょうか? 最後に私達は本当にキリストの為に、キリストによって、キリストの内に、キリストと共に生きたいと望んでいるでしょうか? 何故なら私達の使命とは、今、述べたこの生き方の状態、つまり、救い主キリストと一致している喜びの混じった絶え間ない回心そのものだからです。 アーメン
年間第4主日 2009年2月1日
申命記18章15−20節 1コリントの信徒への手紙7章32−35節 マルコ1章21−28節
安息日にイエスは弟子たちと共に、カファルナウムの会堂に入ります。 彼ははじめておおやけに話し、最初の奇蹟が行なわれます。 マルコはその教えの内容を知らせません。 ただ、イエスが律法学者のようには、教えないとだけ言います。 キリストの教えを聞いた人々は、「これは一体どういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。」と言います。
私達の生活している世界では、権威の評判はあまりよくありません。 私達は権威を、一種のだんだん独裁的権威主義になる権力と、あまりにも度々混ぜこぜにしてしまっています。 権威を持つと言うことは、たとえ、彼らの善になるからであろうと、物事をほかの人に押し付けることではありません。 権威はいつも、他の人への奉仕と、人間の発展に奉仕するものです。 両親や教師の権威は、子供や生徒に与えられた両親や教師の忠告や警告のお陰で、彼らが発展するために必要なものです。 もっと根本的なものは、両親や教師が与える模範によって、権威が与えられると言うことです。 言ったり教えたりする事を行なう人だけが、一種の権威を得ることが出来ます。 言うことと結びつかないものは、いつか軽蔑の的となるか、悪評の根源となるでしょう。
マルコはイエスが行使する権威は神ご自身の行使する権威であることを、私達に分からせたいと望んでいます。 カファルナウムの人々はイエスの教えに感動しました。 というのは、彼の言葉が直ぐに結果を得たからです。 律法学者は宗教的規則をとても良く教えますが、彼らの演説には結果が伴いません。 特に、彼らは従がうべき模範にはなりません。 律法学者たちは人々の背に掟の荷物を置く才能がありますが、彼らはそのことが大人として責任を持つ人として、成長する助けになるかどうか、全く知ろうと努めません。 律法学者の権威は、権力の悪用である、独裁的権威主義です。 反対にイエスの教えは自由を与えます。
イエスが悪魔を追い出されるとき、悪の影響力のもとにあった者を自由にされます。 彼の権威は自由に生きる可能性を与えます。 キリストは解放への道を開くために、傷つき、辛い思いをし、捕らわれている人と、愛によってつながります。 イエスは法を繰り返し教え込むためにご自分の時を過ごされるよりも、より良く生きる希望を与えられます。 彼の数々の奇蹟は同時に、神の解放者としての愛と信仰の力を表明します。 すべての傷ついた人たち、鎖につながれた人たち、のけ者にされた人たちに対して、救いは確実に差し出されるキリストの手です。 それは神の似姿として創造された人間の人格を再発見するためです。
度々、病気や身体障害、または私達が支配できない圧迫や妨げは、人間の自由を邪魔しています。 しかし、また他の鎖に私達がつながれていることもあります。 それは多分、体に毒するアルコールであり得るし、心を麻痺させるお金でもあり得、あらゆる赦しを拒否する恨みでもあれば、祈りを妨げる直接行動主義でもあり、単純さや謙遜さを殺す自己愛や傲慢でもあり得ます。 それはまた私達の周囲にいる人達と眼差しを交わすのを妨げるテレビやコンピューターの画面でもあり得ます。
今日も、私達は自分の計画、また私達の鎖でもあるものを抱えて、イエスとここで出会います。 多くの姿を持つ、奴隷の鎖にとらえられた私達の心を隠したり、否定したりしないように努めましょう。 むしろ、イエスがあらゆる権威をもって、神の子としての自由を私達に下さるように、彼に向かって叫びましょう。 イエスの眼差しは人間の奥深くにまでいきます。 彼は心の中まで読まれます。 だからこそ、イエスは人を圧迫するためではなく、平和をもたらし、いやし、疎外する事の出来るすべてのものから開放して、人の内面に現存されます。 イエスによって宣言される福音は、私達の真只中にあるキリスト特有の現存です。 それは大人として、また責任者として成長するように私達に教え、あらゆる苦境から私達をいやす現存です。 アーメン。
年間第5主日 2009年2月8日
ヨブ記 7章1-4、6-7節 1コリントの信徒への手紙9章16-19、22,23節 マルコ1章29-39節
「みんなが捜しています」 私達はみんな、いつかこんな言い方を聞いたことがあります。 「みんな」が私達に関心があると知るのはうれしい事です。 私達は暫くの間、ぜひとも必要な人になります。 このことは自分が偉くて、重要だと言う感情をあたえます。 疑いもなく、私達一人ひとりのように、イエスは他の人に幸福をもたらしながら、うれしくて、満足したことでしょう。 しかし彼は、自分の使命を早く実現するために、満足するひまはありませんでした。
彼を探しに来た人々に与えた答えはむしろ、「他へ行こう」という意表をつくものでした。 イエスは褒めちぎられるために、またこの地方にいる病人皆をいやすために来たのではありません。 彼は救いの良い知らせをもたらすために来ました。 体よりも、人の心をいやす為に来ました。 彼はそれを群衆の中ではなく、夜の沈黙と祈りのうちで行ないました。
前の晩、イエスの周りでもみ合っていた人たちは、朝になって、改めてここにいるキリストを見るために、また新しくいやしを受けるためにそこにいます。 ペトロの義理の母の熱をいやし、悪魔を追い出すなど、イエスの弟子たちは彼と同じくらい良くすることが出来ます。 しかし人の心をいやすことは、神だけがお出来になります。 問題は、本当に心を変えたいと望む人があまりいないことです。 肉体的ないやしは、それを霊的ないやしに導かなければなりません。 このように、ペトロの義理の母も、一旦いやされると、直ぐに皆に奉仕をし始めます。 仕えるために来られたキリストを模範として回心したパウロは、同様に、みんなに奉仕する者になります。 なぜなら、イエスはその人全体をいやされます。 つまりその人の言葉、分かち合いの振舞い、他の人との関わりが、人への奉仕のうちに実をむすぶために、いやされます。
イエスがカファルナウムの会堂で教えられたからこそ、皆はイエスに従う道筋を歩み始めます。 イエスがペトロの義理の母をいやしたからこそ、皆はイエスのところへ町の病人を皆連れてきます。 イエスが祈りのうちに御父と語るために遠ざかられたからこそ、皆はイエスを捜しにいきます。 イエスは彼が出会う人々皆と動き始めます。 福音のこの箇所で、隙間風のような、息吹きのような、行動にかりたてる聖霊を感じます。 イエスは群集と救いのみ言葉の間に、いやしを望む群集といやされる神との間に、行ったり来たりする動きを創り出します。 この動きは呼吸のようです。 かつてヨブはそれと知らずに、嘆きの最中に真実を言いました。「私達の命はひと吹きの息吹きにすぎません」と。 そうです。 しかしながら、その息吹きは神ご自身のものであり、命と分かち合いと奉仕の息吹きです。 神とのさし向かいと祈りの中で、その力を汲み取るのは、この息吹きなのです。
走る人は、自分の呼吸を訓練せずに、どんなレースにも勝つ希望を持てません。 もし、イエスご自身が長い間、祈られるのなら、私達自身は逆境にあって立ち向かうために、この魂の呼吸をどれほど訓練する必要があるでしょうか! 「召使いはその主人に勝るものではない」と言われています。 イエスは話し、教えられ、人々は彼の言う事を聞きます。 人々はイエスに願い、イエスは祈ります。 人々はイエスのところに行き、イエスは他の人のところへ行きます。 キリスト者としての私達の使命は、それ以上でも、それ以下でもなく、全く同じものです。 それについてパウロは特徴のある証人です。
パウロはかつての預言者エリヤのように、律法を守るために、神の名によって人を殺す事をためらいませんでした。 しかし、ダマスコへの途上で、電撃的な光がパウロをこの殺人の熱から開放しました。 目が見えなくなった彼にイエスは視力を与え、とくに彼の心がいやされます。 何年か後で、コリントの信徒に対して、宣教者の心で手紙を書いたパウロは、「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。 できるだけ多くの人を得るためです」(1コリント9章19節)と言っています。 パウロはペトロの義理の母のように、自分の熱に対して自由であったので、他の人に奉仕することが出来ました。 パウロはイエスの息吹き、神ご自身の息吹きによって生気づけられました。
パウロのように、私達も、心を変える命の息吹きが私達のうちに入るままに任せなければなりません。 神のうちにあるものを吸って、それを外に吐きましょう。 同様に、祈りの沈黙の中に入って、み言葉の宣言に出かけましょう。 もっと良くキリストを捜し求める為に、キリストを見つけましょう。 もっと良くキリストの体、彼の手、彼の唇、彼の言葉になるために、キリストの体を受けましょう。 神の現存において、奉仕するために、キリストによって選ばれた恵を味わうために、私達の体と魂のあらゆる面で、キリストを受け取りましょう。 アーメン。
年間第6主日 2009年2月15日
創世記3章16-19節 1コリントの信徒への手紙10章31節−11章1節 マルコ1章40−45節
二つの手が出会います。 二つの手が律法に違反したばかりです。 二つの手があえて触れようとします。 命に満ち溢れた一つの手が、差し伸ばされたもう一方の手を蝕もうとした死を殺します。 病人は蘇えったばかりで、王国が近づきます。
「私はキリストに倣う者である」とパウロは誇りをもって宣言します。 これがキリスト者の特徴です。 私達の間で生活されたキリストの行動を模範としなければなりません。
マルコは度々、イエスを律法の違反者として示します。 彼は、キリストにとって第一のものは、自分が出会う人たちと交わり、一致することだということを、私達に分からせたいでした。 イエスは排除する事をすべて拒否され、「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない」(ヨハネ6章37節)と言われるほどです。 イエスにとって、排除することはすべて不正なことです。 律法に違反しながら、イエスは誰でも軽蔑される人に対して、何時も責任のあるやり方で行動します。 私達もまた律法に違反することがありますが、一般的に私達の利益の為です。 イエスの目的は全く違うものです。 そのために聖パウロはイエスを真似ようとします。 「どんな状況にあっても、すべての人に自分を順応させようと努めます。 自分の個人的な利益を捜すのではなく、多くの人の利益を求めます。」と聖パウロは言いました。(1コリント10章33節)
イエスを見ましょう。 彼は近づいてはならない人が傍に来るのをそのまま許します。 その上、イエスは病で姿が変ってしまい、社会から捨てられ、 法によって排除されている人間に同情をもって触れます。 このようにしながら、イエスは今癒そうとしている人の状態を自分のものとします。 まさにそれ故、彼は自分自身が不潔なものとなり、排除された状態に陥ります。 彼は町に入ることが出来ません。 が「人里はなれた」所へ身を置かなければなりません。 私達に対する主の同情はもっと深い所まで行きます。 自分を悪人や排除されたものと同列において、イエスは町の外にある丘、つまりゴルゴタの丘で死にます。 そして十字架上で、裸で、鞭打ちを受け、唾を吐き掛けられ、いばらの冠をかぶせられて姿が変ってしまい、皆が自分に背を向けて遠ざかるのを見ることになります。
今日、私達に啓示される神が持たれる姿はこれです。 「私を見た者は父を見た」(ヨハネ14章9節)とイエスは言われました。 病人を癒す為に、手を伸べられるイエスをじっと眺める私達は、神と人間の間には距離がない事を理解せざるを得ません。 イエスは病人に触れ、悪霊にとりつかれた者と出会い、罪人たちと食事を共にし、二人の犯罪人の間で死にます。 このようにして、イエスは預言者イザヤの予言を成就します。 それは、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」(マタイ8章17節、イザヤ53章4節)という言葉です。 イエスは人類のすべての悲嘆を分かち合いたいと望まれ、その故にこそ、私達はイエスを真似ようと努めなければならないのです。
ではどのように彼を真似るのでしょうか? 先ず、私達はありのままに、イエスのところへ行くのを受け入れなければなりません。 しかし同時に、私達は神を本当に信頼する事を受け入れることです。 なぜなら神は私達の人生を隅々まで、そしてその内にある曖昧さをあるがままにご覧になりますから。
更に、キリストのように、私達は違っている人、排除されている人の隣人にならなければなりません。 つまり、私達もまた、法に違反するものとなり、障壁を乗り越え、憶測を捨て、あらゆる種類の差別をなくさなければなりません。 特に、イエスと共にすごす友愛のなかから、信頼と熱意に満ちた祈りのなかから、愛の力を汲み取りましょう。 というのは、愛だけが癒す事ができ、愛の証しだけがあらゆる排除を砕く事が出来るからです。 アーメン
年間第7主日 2009年2月22日
イザヤ 43章18,19,21,22,24,25節 2コリントの信徒への手紙 1章18−22節 マルコ2章1−12節
今日の朗読を結ぶ筋道は赦しです。 イザヤの朗読のなかでは、この赦しのおかげで、神が新しい世界を造られることが語られています。 詩篇41を用いて私達はこの赦し、神の憐れみと救いの印を歌いました。 パウロはコリントの信徒への手紙の中で「私達の心に宿っている聖霊」は私達が本当に赦されていることの印であると私達に説明します。 最後に、福音の中で、中風の人に与えられた赦しは、癒しと体が自由に動くようになることの泉となります。
ある年老いたユダヤ教の祭司が私達の一人ひとりは糸で神に繋がれていると話してくれました。 人が罪を犯した時、糸は切れます。 しかし、自分の間違いを後悔する時、神は糸で結びを造ります。 ですから、糸は前よりもっと短くなりますが、罪人は神に少し近づきます。 このように、過ちから過ちへと、一つの結び目から次の結び目へと、そしてまた赦しから次の赦しへと、私達は神に近づきます。 結局、私達の罪の一つ一つは私達を神と繋ぐ糸を短くする機会となり、神の憐れみのみ心に、より早く行きつく事ができます。 受けた、または与えられた赦しは、いつも恵の泉です!
しかし、神の赦しを得るために、先ず自分が罪人であることを認めなければなりません。 私達がそれを望もうと望むまいと、私達の存在はみな、罪によって麻痺しています。 これらの罪は私達の犯した悪ですが同時に、私達が善の実現を拒否した罪でもあります。 これらの罪を他の人の中に簡単に認めますが、自分のうちに認めるのは易しくありません。 そういうわけで、今日の福音はカファルナウムの中風の人の中に、私たち自身を見るように招いています。 同時に、私達の病を癒す為に、イエスの傍に、信仰によって私達を運ぶ人々が、どんな人かを自分の心に問うように招きます。 私達がもっと生き生きとし、活発で、役にたち、より好ましくなるように、私達の周囲で関心を持つ人はどんな人でしょうか。 確かに、私達一人ひとりの周囲に、信仰をもって、私達の体と魂の健康を望んでいる人々がいます。 彼らの望みと一致して、私達のうちにある、頑なな、硬直して、麻痺している部分を、敢えてイエスに見せる勇気を持っているでしょうか? 聖霊が私達の心に住まわれるように、私達が罪と死の支配から解放されるのを望むでしょうか。
もし既に、私達が赦しの秘蹟を受けているなら、イエスのところへ中風の友人を連れて来るためにあらゆる努力をした4人の運搬人と私達とを同一視するように福音は私達を招いています。 しかし、私達のうちの或る人は、神の傍に連れて行って、彼らを刺激し、立ち上がらせ、支える友が必要です。 ここでは、信仰は友愛となります。 それは、自分自身で、イエスのところへ来る事のできない罪と麻痺に捕らわれている友人の、永遠の救いの為です。
私達の祈りは度々とりなしにならなければなりません。 「主よ、この人、あの人を癒してください。あなたはどれほどの悪が彼らを捕まえているかご存知です。 私達は、秘かなそして親密な祈りの内に、あなたが彼らを赦し、彼らを解放し、彼らを癒す為に、彼らを紹介しましょう。」 私達の信仰が他の人びとの救いの為に役立たなければなりません。 絶えずイエスの前に、和解と癒しの道具として留まりましょう。 倦まずたゆまず、根っこまで私達の悪を癒し、赦す力をもたれる唯一の方、神に私達の信頼を与え続けましょう。
「見よ、新しい事を私は行なう。 今や、それは芽生えている。 あなたたちはそれを悟らないのか?」預言者イザヤを通して神は言われます。 イエスにおいて、この新しさは成就されました。 もし私達が信仰をもって、病気の世界を神の前に敢えて差し出すなら、この新しさは私達を通して実現し続けます。 自由に歩く事が妨げられ、平和と正義と愛のうちに刷新する事を妨げられている、中風になった全ての人類を癒してくださるように神に懇願しましょう。 アーメン
年間第12主日 B年 2009年6月21日
ヨブ記 38章1、8−11節 コリントの信徒への手紙2 5章14−17節 マルコ 4章35−41節
イエスは弟子たちが彼と共に過ごす生き方を、何か変えるために、彼らを「向こう岸」へ渡らせます。 そのためには、彼らは夜の危険、海の危険に立ち向かわなくてはならないでしょう。 嵐の真只中で、弟子たちは、「先生、私達は溺れます。 それでもかまわないのですか?」と叫びます。 これに対してイエスは「なぜ怖がるのか? まだ信じないのか?」と答えられます。
奇妙な答えです。 信仰が恐れを安全な場所においてくれるのでしょうか。 まさに、イエスはゲッセマニの園で、恐れの辛い体験をしました。 私達が恐れるには、沢山の理由があります。 何故なら、生きるということは、絶えず、死の危険にさらされているからです。 それなら、信仰はなんの役にたつのでしょうか? 信仰は、身がすくんで無力になってしまわないようにし、私達の霊的進歩と人間的発展の段階を、 次々と乗り越えるように助けます。 信仰は「向こう岸へ渡る」のを手伝います。 このことは、信仰が、ほかの立場に身を置くように私達を招いていること、 異なったやり方であらゆる物事を検討するように勧めでいることを意味しています。
今日、聖パウロが「生きている人達が、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分達のために死んで復活してくださったキリストのために生きること」(2コリ5−15)しかないと私達に勧めていますが、これがそのことです。 信仰はあらゆる事を変えます。 私達が私たち自身のほうに向いて生きようとするなら、すべてが簡単に、心配や不安の問題になります。 しかし私達の気がかりが神や隣人のほうに向くとき、私達の不安の嵐や苛立ちの風は落ち着き、平静さは素早く私たちに戻ります。 あらゆることの焦点が主に絞られているとき、出来事は別な風に理解され、見方は変化し、広くなります。 聖パウロが「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリ2、5−17)と言っているのはこのことです。 信仰が私達の怖れを変化させる事ができるのを、本当に身をもって知るには、何時も嵐を通り抜けて、「向こう岸へ渡ら」なければなりません。
私達の嵐には違った名前がつけられていて、私達の心とか、体とか、魂に沸きあがってきます。 疑惑の嵐、挫折の嵐、絶望の嵐があります。 離婚の嵐、人間関係の破壊の嵐もあります。 愛し合う人達を別ける受け入れ難い死が引き起こす嵐もあります。 身体的なまた倫理的な苦しみの嵐は、苦しむ人を無力にし、取り巻く人々をも無力にします。 中傷や誹謗の嵐に対しては、沈黙を守り、真相がただされる時を待つ以外、 私達を弁護するものはありません。 そのうえ、私達の魂が自分自身の奥深いところで、危険な突風に襲われることもあります。
試練に揺さぶられ、暗闇に取り乱し、崩壊にさらされて、私達は動転します。 助けて! と叫びますが、主は黙っておられます。 しかし決して勇気を失ってはなりません。 たとえ神が眠っておられるように見えても、私達のあらゆる困難を目にしておられ、私達が何も出来ず、すべてを失ったと思われる時、助けに来られるでしょう。 福音の話が示しているように、神は嵐の外におられるのではなく、嵐の中心におられます。
マルコは困難の外側にではなく、その中心に神を捜すように招いています。 神は嵐をおこす方ではなく、海と風に命令する方です。 神は私達と共におられ、私達を伴い、衰える事のない愛で私達を支えられます。 神は私達と共におられますが、むしろ私達の中におられます! が、私達は度々それを忘れます。 もし私達のうちにおられ、私達を愛されるこの神を信頼するなら、平和を取り戻すのは確かです。 平静さは神の光の中でしか見つけられません。 平和は神のすぐ近くに留まる人にしか、与えられません。 ですから神と一つになって、私達の出来る限りの努力を尽くしましょう。 アーメン。